厄年1994


 もう18年も前のお話ですが・・・・・、お仕事でその時代に作った機械製品の 問合せも昨今入りましたし、これは天からのお達しかと感じましたので、老齢により 忘却しないうちに、記憶を手繰りここに書きとめておこうかと思います。

 忘れもしない1994年、実年齢や暦とは関係なく、自分にとっては本厄の年でした。
本厄があれば前厄もあるで、その前年の1993年、母親が脳梗塞で倒れ緊急入院しました。
とりあえず一命は取り留めましたが、完全回復の予想は無く、あれこれと管が 入ったままの状態で寝たきりに・・・。
入院した病院が救急指定病院であったため、追い出されるように受け入れ先を 捜して、隣町のF病院へ翌年の3月に転院しました。
仕事が終わってから毎日、意識もほとんどない母親の元へ洗濯物を取りに 通院してましたが、そんな母も6月の某日に急に容態が悪化して、最後に看取ることも できずに病院で息を引き取りました。享年70歳でした。

 そんな母の葬議も終わり、一ヶ月も過ぎて平穏な生活に戻った頃・・・・・正確には7月16日の金曜日。
お仕事の一環として、勤務先にて当初に記した機械製品を製作しており、 外注工場で製作・組立作業が行われていて、途中工程での状況確認のために 呼び出され、機械設計担当の同僚と出かけました。
パワーゲートと呼ばれる、フォークリフトのマスト部品のようなものが、 トラック式の作業車に仮溶接してある状態で、その取り付け具合の確認を していたのですが、その荷台部分に足を掛けたところ・・・・・・

 300kgはあるパワーゲート、その仮溶接部分が剥がれて落下したらしく、 ガシャーンという音と共に床に倒され、そのまま動けなくなりました。
どうやらパワーゲートの下敷きになってしまったようです。あわてて外注 工場のスタッフさんたちがパワーゲートをどかしてくれたようですが、やはり 動けません。床に転がったまま救急車の到着を待ちました。
幸いにも意識はあり口は利けるので、同僚に当時前様が勤務してた 事業所の電話番号を伝え、事故に会った旨の連絡をお願いしました。
前様に電話で状況を伝えた同僚、気が動転していたのか、「倒れて 動かないんです・・・・」と話したらしく、前様、旦那が死んでしまったと 思ったそうな。
前様、気を取り直して、「口は利けるか?」と問い返して、とりあえず意識があり、 生きてることを確認したので、「忙しいから、搬送先が決まったら、また連絡を下さいね」と 電話を切り、仕事に戻ったそうでございます。

 寝転がったまま数分、救急車がやってきました。動かずにじっとしてれば、 受傷部は麻痺してるのか何ともありませんが、ストレッチャーに載せられる時には 痛いこと痛いこと・・・・、この時点でどこをどれだけ傷めてるのかさっぱりわかりません。
救急車に乗せられての走行中、カーブでGが掛かると痛かったです。
やがて救急車が病院に到着、扉が開いて救急受け入れから入りますが・・・・・、 そこに見た光景は、なんと先日まで母親が入院してたF病院じゃありませんか!
またここか・・・・・・・と眩暈がしました。
病院のベッドに移される際も痛くて痛くてたまりませんが、着てた服や下着をハサミで 切り取られてスッポンポンにされ、さらにあっち向けてこっち向けてと強引に姿勢を 変えさせられてレントゲンを撮られたときの痛さも、絶叫したくなるほどでした。
どうやら左足と左肩に損傷があって、左側の手足が動かないことがこの時点で やっと判ってきました。
やがて処置室から6人部屋の病棟に移され、左足を骨折してることと左肩を脱臼してることを 医師から知らされ、早速治療が始まりましたが・・・・、医者が持ってきたのは 電動ドリルです。看護婦さんたちに取り押さえられ・・・・・って、抵抗どころか 動けるはずもありませんが、いきなり麻酔注射を左のひざのちょっと上に打たれて、 他の入院患者さんが居るその部屋で、突然にドリルで脚に穴を開け始めました、「うぎゃ〜・・・・・・・・・」
脚の骨に開けた穴に鋼棒が通され、そこに2キログラムの錘がローラーを介してぶら下げられ・・・・、 けん引と言って、筋肉の収縮で折れた骨の位置がずれないように、手術になるまでの期間は 脚を引っ張り続けておくそうです。
次に偉そうな医師が、左肩の脱臼の治療に当たり、若手の先生に手順を教えながら 『整復』してくれましたが、このとき初めて整復という単語とその意味を知りました。
これでとりあえず一段落しましたが、脚には錘がついたままですし、左手は包帯を巻かれて まったく使えずで、ベッドの上で寝返りも打てず、仰向けでいるしかありません。トイレは どうするのよ!って感じですが、看護婦さんが早々に尿瓶を持ってきてくれました。

 やがて前様がやってきて、医師から詳しく説明を聞いて受傷状況を解説してくれました。
左肩は脱臼だけであり、整復したのでとりあえずはOK、しかし、左足は大腿骨の複雑骨折で 最悪は切断する危険性もあるとの事、レントゲンを見る限り骨はバラバラだそうです。
手術予定日は7月27日に決まったらしく、それまでの12日間、そのままの姿勢で過ごしましたが、 吊ったままの脚、折れた骨が動くのか、時々地獄の苦しみのような痛みが伴いました。
左の太もも、すっかり内出血太くなっていて、病棟の美人看護婦さんのYちゃんのウエストより太いと言われて おりました。


 なお・・・、一緒に事故にあった外注工場の社長さん、頭から血を流していて、 縫合だけの軽症で終わるかと思われましたが、首があがらないと訴え、 レントゲンを撮ったところ首の骨が折れてました。二人仲良く同じ部屋に しば〜らく入院でした。


 とても痛かった手術後の経過とリハビもなんとか終わり、左足が2センチほど 短くなってしまいましたけど、11月には退院しました。
本来ならもうちょっと早くシャバに出られたはずなのですが、病院というところ、 原因不明という理由で、お酒では壊れない、とても丈夫な自分の肝臓を壊して くれました。入院時は正常値だった肝臓のGOT、GTPの肝機能指数、退院が近く なった時点で3桁の異常値を示しており、素直に退院させてくれません。
輸血の所為なのか、投薬の所為なのか、あくまでも不明であって、整形外科に 入院しながら、院長の担当する内科まで受診していた次第です。
入院して病院での食事を取ってるのに何でやねん!とクレームをつけ、 整形外科は労災扱いで入院してるので、内科の受診は無料にしてもらいましたが、 健康保険証を持ってきてくれと、事務方から分けのわからないことを言われ、 納得できないので却下して持っていきませんでした。病院からすれば嫌な 入院患者だったでしょうね。


 翌年の6月、骨の中に埋め込んだ金具の抜釘手術を受けましたが・・・・
本厄の後にはしっかりと後厄の年もあったようで、素直に全快には至らせて もらえません。
同じくF病院に入院して手術の段取りとなったのですが、骨の再生が良好だったようで、 骨の中に埋め込んだ金具の頭が見えなくなってしまい、骨を削って見つけ出した そうで・・・・、手術後に医師の経過説明を聞いた前様、レントゲン写真にクサビ型の影が あるのを見つけて「何ですか、これ?」と尋ねたところ、「削りました」と 自白を聞き出したそうです。
削りすぎた恐れもあり、強度的な不安があるから、通常なら抜釘手術後は2週間で 退院となるのですが、1ヶ月は入院しててくれと言われて・・・・・、また1ヶ月も 閉じ込められました。
しかも、それだけでは終わりません。
退院後にしばらくして患部に痛みが出てきたので、受診日に前様にも付き添って もらって診断を仰ぎましたが、レントゲン写真を見ての診断結果は「異常はありません」との 判断です。
しかしながら、その数日後、トイレに入って立ち上がろうとした瞬間にグキっと骨が鳴って、 行動不能に陥りました。当初は寝返りも打てない状況でしたが、徐々に痛みも 引いて来たので、松葉杖を突きながら仕事に行ってたりもしてました。
サンタクルーズのギターが海外から届き、その梱包を開けるにも苦労した記憶が 残ってます。
1年前には見ることのできなかった地元の花火大会も開催されてましたが、とても 歩いていける状況ではないので、自宅でじっと我慢してました。
そしてその数日後、また術後の定期受診の日となり、会社を抜け出してF病院に行くと・・・、 診察室で「痛いです」と告げると、とりあえずレントゲンを撮ってきてくれと、自力歩行で 放射線科まで行かせられ、写真を持参してまた整形外科に戻り、その写真を貼った 若手の先生、隣の診察室にいる部長先生を呼び確認して言うことには・・・・
「骨が傾いでますね、折れてますから安静にしてください」と言われて歩行禁止となって 車椅子に乗せられ「入院して再手術を行います」とのたまわれて、一瞬眼の前がまっ白に なりました。

またかよ!

 とりあえず公衆電話に行ってあちこちに連絡、皆様一同に「え〜!!!」という反応しかありません。
その後に病室に入れられ、ベッドの上に座っていると、夜勤をしてた美人看護婦の Yちゃんが巡回で回ってきて、人の顔を見るなり、「何で居るの〜!!!」と驚いてシャウト、 「できれば居たくないんですけど・・・」としか答えられません。


 その翌年に再度抜釘手術を受けましたが、またもやミスありで、朝から浣腸して、朝・昼と 絶食をして、点滴を打ちながら手術室に入る準備を済ませて呼ばれるのを待ってると・・・・、 若手の医師と婦長さんがやってきて、「申し訳ありません、手術室に予約を入れてありませんでした、 手術は明日になります」と!

バカバカしくって・・・・バカバカしくって・・・・、堂々と病院を抜け出して夕食を食べに出かけたのは 言うまでもありません。




 過去のコラムを調べてみると、 No.350:14年前・・・  でも書いてましたね。f(^^;) ポリポリ


2012.3.27 記


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