恋のフーガ


 「うちのメモリーが・・・」という言い回し、前様にとって怒りの キーワードになってます。


 話せば長くなりますが、もう数十年も前のことなので、すべて時効 ということで昔話を始めたいと思います。
そもそも本日の内容、甲斐バンドを聴いてたところから、 昔の出来事が走馬灯のように思い出されて、心の中に浮かんできたのです。
たまには昔を振り返ってみるの良いのでしょう。

 甲斐バンド、初めて聴いたのは1975年だったでしょうか、 学生時代にアルバイトしてた本屋さん、そこへアルバイトで入ってきた 高校生のMちゃんと、人生初のデートをしたのは19歳、青春の思い出 ですね。
そんなガールフレンドから紹介されて、LPレコードを借り受けて、 甲斐バンドの存在を知ったのでした。
『らいむらいと』『英雄と悪漢』『ガラスの動物園』と3枚続けて聴きました。
当時はフォークブームでしたが、甲斐よしひろ本人が述べてるように、 ロックを書く詩人、まさにそんな歌詞が多かったですね。
若気の至りか、Mちゃんとは一度は分かれて、新たなガールフレンド Kちゃんとの恋物語が始まりましたが、あえなく10カ月で消滅、 その直後の傷心して落ち込んでる中、看護学生をしていた前様とサークル 活動を通じて知り合ったのです。
足利フォーク村の村長さんの車の後部座席、初めて交わした言葉は お互いに「ん?」でした。
まさか将来結婚して、現在に至るとは、夢にも思ってなかった当時です。

 その後の前様は、当時の音楽仲間とお付き合いがあったそうで、自分とは お友達の関係、地元でのサークル活動にもあれこれ励んでいた様子です。
そんなサークル関係者の中に、自分にとっては高校でも2年先輩の Sくんが居りました。
身長180cm以上、体重は100kg以上のスポーツ刈りの巨漢で、 血液型はB型、学生時代は柔道部に所属してました。イメージと してはジャイアンそのものですね。
車の助手席にサングラスをかけた彼が乗って、丸太ん棒のような 片腕をドアの外に出していれば、 どんな乱暴な運転をしてもクラクションすら鳴らされない迫力です。
Sくん、ケルト音楽を紹介したら、ジョン・レンボーンやバート・ヤンシュが 好きになって・・・・・やがてはクラシックにまで進むのですが・・・・、 ステファン・グロスマンとジョン・レンボーンの来日コンサートの 情報を見つけてきてチケットを入手、前様と3人で都内まで ライブを観に行ったこともありました。
見た目は強面で近寄りがたいSくん、実は奥手で心優しい性格です。
前様の事が気になるらしく、ストーカー状態でやたらと追いかけまわして ましたっけ。彼氏と別れた前様もフリーとなって、当時はボーイフレンドが たくさんいた様子ですが、Sくんが追いかけてるのを知ると、一人離れ 二人離れと、気が付いたら誰も居なくなっていたと話してます。
また、当時は現職の町会議員で政治家であった前様の親父さんとも、文系の B型同志かつ似たような体系同志ゆえか、話が合うのか意気投合することも 何度かあって、娘としてはそれが余計に嫌だったみたいです。

 ある日、地元の市民会館で甲斐バンドのライブコンサートが行われる ことになり、自分はまたお付き合いを再開したMちゃんを連れてバイクで 出かけました。まとめてチケットを入手したので、前様とSくんが臨席です。
開演前に「彼女を紹介して!」と、やたらと前様がうるさかった 記憶がございます。
ライブが始まると、基本的にロックですから大音響、ロックが好きでも ないのに、お付き合いでライブに来てたSくんは、途中で耐えられなくなって 退席してました。


 それからどれくらいの時間が経過したのか記憶が定かではありませんが、 結局はMちゃんにフラれて彼女が居なくなって・・・・、Sくんのストーカー 行為に一人暮らしのアパートから逃げ出して、近所である我が家へ避難 してることが多くなった前様ですが、自分が仕事から帰ってないのに、 家の中に上り込んで家族と話をしてる前様もあったりして・・・・、 さらに、前様の居場所を知ったSくんも、我が家まで追いかけてくることも あって・・・
二人でお酒を飲んだある日から、そのまま我が家に居ついてしまった前様で ございます。(^〜^;)ゞ イヤァ〜


 両親と実兄が新たに新築して始めたレストラン、1年ちょっと手伝って、 前様と二人で家を出ました。近所の公営住宅で二人暮らしです。
この頃には正看護士として病院へ勤めていた前様、担当してる患者さんで 旦那さんがオーディオ好きな奥さまが居たそうで、やたらと自宅の システムを自慢してて「うちのメモリーが・・・」という 鼻持ちならない言い回しにムカムカとしてたそうな。
メモリーというのは、英国はTANNOY社の高級大型スピーカー、 『GRFメモリー』という機種の事で、1981年の当時で、 1本56万円の定価でしたかね。


 商売が上手くいかなくなって、両親を捨てて家を出て行った実兄に代わり、  負担月贈与ということで数年後にまた自分の実家に戻り、昼間は サラリーマン、夜と日曜・祭日はレストラン業務というハードな生活が 続く中、実に久しぶりにSくんが、お客さんとしてやってきました。
Sくんのことが好きだった、当時のサークル仲間のOさんと結婚して、 お子さんを連れてやってきましたが、Sくんそっくりで、どう見ても ジャイ子です。
それからまたしばらくした後日、Sくんと電話で話す機会があり、 誰かさんと同様に、ジョン・レンボーンの音楽の影響からクラシック への道へと進んだ様子で、オーディオ装置も一通り奮発、弦を聴くのに 向いてるTANNOY社のスピーカーも購入されたそうな。
そのころ我が家にも、JBL4344の他に、同社のスターリングという 機種が入っていたので、その旨伝えたら・・・・
「ふ〜ん、JBLとスターリングね、うちのメモリーが・・・・・」
昔の嫌な記憶がフィードバックした上に、 スターリングより大型のGRFメモリーを所有したことで、優越感を持って 自慢げにしゃべる話し方に、受話器を持つ前様の顔が、メチャクチャ 不機嫌になったのは言うまでもありません。
以後、我が家において「うちのメモリー・・・」は怒りの起爆剤です。




 時は流れて2012年の衆議院選挙の投票日、前様の看護士の先輩でもある 共産党の市会議員から電話があり、「選挙は行きましたか?」の 慣例句の後に、Sくんが12月14日の金曜日に逝去された 連絡がありました。前日に地元の知り合いへ勧誘の電話を掛けまくって いたところ、そんな情報を仕入れたそうです。
やはり太ってて、チェーンなヘビースモーカーでしたから、そんなもの ですかね?
葬儀の情報もなく、今となっては住所も連絡先も分からないので、深追いは せずに、静かにご冥福を祈ることに致しました。
一つの時代が終わったと、実感した次第でございます。


2013.1.16 記


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