そのむかし・・・


 実家はレストランを営んでました。
祖父が大正8年に開業した、地元で一番古い洋食屋であったとか!
借家だった店舗も老朽化した昭和54年、実兄が跡を継ぐと言い出し、 実父とローンを組んで新築して開業したのが、現在住んでる家 『LIVE space EM』であります。
しかしながら兄も父も、商才とか戦略とかの経営能力がまったく 無かった。
婿である父は農家出身の三男坊、尋常小学校しか出ていないから 学歴は無く、十代半ばから整備兵として軍隊に入り、最後はシベリアに 抑留されてから帰ってきて、家でブラブラしてるところへ婿養子の 話が有ってやってきた様子。世間知らずであるし、商売のノウハウも 教わってないでしょうから当然才覚はありません、さらに被害者 意識の塊みたいな考え方で、長いものには巻かれる性格、そして 愚痴愚痴と後ろ向きに文句を垂れ、酔った時に鬱積が爆発して トラになるタイプです。社交性も無いので、人前で明確に話をして 会話によって説明するとか、気遣う仕草を見せるとかは皆無で、 自分の意見を述べることも無く、いつもコソコソしています。

 商業高校を卒業後、長男故に跡を継ぐべく調理師学校へ通い、その後に サラリーマンをしていた兄にも、その被害者意識の強い所が遺伝した らしく、自分で立ち上げたお店なのに、責任を取ってクローズすることは せずに、子供のミルク代が稼げないと言い出して、父と心臓病を患ってた 母とローンを残して、家を出て行ってしまいました。

 レストランとして開店した当初、人手不足なのは判ってましたので サラリーマンを辞めて実家の手伝いに入った自分ですが、いつも一人で 接客を任され、お客さんが居ない時間帯もカウンター内で常時待機 でした。
調理担当の母と父は2階の自室でTVを観ながら過ごし、兄は奥の 部屋で趣味のアマチュア無線に没頭、お客さんが来た時に声を掛ければ 調理場に迎い、調理が終わればまた引き籠ります。次男である自分だけは お客さんが帰るまで店番を続け、サービスに務めてました。
自分の部屋に引き籠っている間、新メニューとか、何かしらの経営戦略 でも考えてくれればいいのですが、ただ単に時間をつぶしてるだけで なにもせず、店番の負担はこちらに預けっぱなしです。
給料も小遣いももらえないまま、そんな状況が1年半も続き、 跡継ぎでもない次男であり、近所のアパートに前様と移り住んで、 忙しい時にだけ手伝いに来ようとしていた矢先、引っ越し先の 様子見で、店番を少しサボったことに兄が腹を立てて大喧嘩、以後は まったく手伝うことはせずに、急に家を出ることになりました。
その後に兄が結婚して子供が生まれ、商売が上手くいかずに親を 捨てて逃走して行ったのは上記の通りです。


 跡継ぎが親を捨てて家を出てしまい、残されたのは商才のない父と 心臓病の母、当然ながらローンなど返せるはずも無く、近所に 済んでる私共にもお金を借りに来ました。自前の土地を売り払って ローンをチャラにすることも出来たのでしょうが、自発的には 何一つ動けない父親、病弱の妻を抱えた悲劇のヒーロー状態で、 自分の責任は棚に上げて、周りが悪いと愚痴をこぼすだけ?。
どのような経緯でそうなったのか記憶がありませんが、前様の 親父さんの取り計らいで、負担付き贈与と言う形でその家に 戻った、当時は20代後半の私たちです。
両親から財布を取り上げ、何とかかんとか多額のローンと、父が 作った借入金の返済を済ませてきました。
もう30年も前のお話です。


 友人が近く独立して、自営で開業するというお話しを聞いて、遠い 昔を思い出してしまいました。
お店に流すBGM、オーディオ装置だけでは、機器も間も持ちません。
有線放送と契約してましたね。今では『有線放送』と言っても無線で、 高品質の音質でありとあらゆるジャンルの音楽が選択できる ようです・・・・・、なんて、つまらないことまで思い出しちゃい ました。


2013.8.21 記


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